[嫌われる勇気]アドラー心理学は子育てに活かせるか



久しぶりに気合を入れて読書をした青海です。若かりしころは活字を読むのは早い方だという自負があったのですが、社会人になってからは読む本の量も減り、妊婦になってからは目がすべって文字が追えなくなり、育児を始めてからは書籍を読むより睡眠を優先させていたので、すっかり読むスピードが衰えておりました(;´・ω・)何事も訓練は大事…。

アドラー心理学を子育てに活かしたい

読んでいたのはベストセラーになっている「嫌われる勇気」を含めた、アドラー心理学に関連する著書です。最近になってアドラーのことを知り、その哲学や考え方に感銘を受けました。シンプルに言って、「もっと若い時に知っておけばあんなに苦しまなかったのに…」と思ったことがたくさん書いてありました。


嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]

アドラー心理学は一朝一夕で完璧に理解ができるようなものではなく、実践するのも大変難しい思考方法のため、自分自身も忘れないよう書付として、今後取り組みたいと思うことを残しておこうと思います。

ちょろっと書籍を読んだくらいでアドラーの精神に100%則った子育てができるはずもないわけで、「アドラー心理学に影響されて私が始めようと思ったこと」くらいのライトな内容だとご理解ください。…という逃げ道を用意したところで、いざ本編!

怒ってはいけない、褒めてもいけない、命令してもいけない

怒りはねつ造?

さて、アドラー心理学と育児の関係でおそらくまっさきに出てくる言葉が、「怒ってはいけない、褒めてはいけない」だと思います。アドラーは怒りという感情を「ねつ造」だと言い切ります。例えば、子どもが持っていた牛乳をひっくり返してしまい、それに怒ったとするならば、それは反射的に怒りという感情が噴き出てきたのではなく、「子どもを謝らせたい、言うことをきかせたい」という目的があって、その手段として怒りという感情を利用したに過ぎないとしています。

この考え方に私はとてもうなずける部分があって、この理論を知って以来声を荒げる機会がだいぶ減りました(ゼロにならないところがまだまだ未熟)。怒りそうになった時には、努めて冷静な声で、自分は何をして欲しいと思っているのか、何を悲しく思っているのかを、子どもに言葉で説明するようにしています。

褒めることは子どもの主体性を奪う

次に「褒める」ですが、私はアドラーを知るまで「褒める」ことはとてもいいことだと考えていました。そして実際に長女をできるだけ褒めて育ててきました。いわゆる長子らしく、「素直で良い子」な長女は、小学校に入ったら「ちょっと男子ぃー、ちゃんと掃除しなさいよー」とでも言いそうな委員長タイプです。

でもそんな長女の言動に、最近気になることが増えてきました。ひとつは、何か行動を起こす前に親の顔を確認するようなそぶりを見せるようになったこと。二つ目は、「どう、偉い?褒めて!」ということが増えたこと。三つ目は、次女に対して「〇〇しちゃダメって言ったでしょ!わかった?」という言い方をするようになったことです。

前半2つは彼女の主体性が失われていることの現れであり、最後は私自身の声かけが長女の主体性を奪っている(長女は私の言い方をまねているだけ)ことを表しています。これじゃいけない、と思っていたところに、アドラーの本に出会いました。

アドラーは「褒める」というのは上の立場が下の立場に行う行為で、対等な関係とは言えない。「褒める」という賞罰教育を続けると、その子は「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」という、誤ったライフスタイルを選ぶことになると厳しく断じています。

子は親の期待を満たすために生きてはいけません。親の声かけによって、子どもの承認欲求を助長させてはならないのです。私自身が承認欲求の存在を強く信じ、それにとらわれた生き方をしてきたので、この点は強く心に刺さりました。

「偉かったね」「よくできたね」という声かけを(もはや反射的に)行っていましたが、最近は「がんばってくれたんだね、嬉しいよ」や「わかってくれてありがとう」という「Iメッセージ」(評価ではなく、「私」がどう感じたかを伝える言葉)を使うようにしています。…褒めることも大概難しいと思っていましたが、Iメッセージはさらに難しくて頭使います(;´・ω・)

親子であっても対等な関係だから、命令はしない

先の「〇〇しちゃダメって言ったでしょ!わかった?」という長女の言い方は、そのまま私が普段長女に言っているセリフでした。長女が大きくなるにつれて理解力も高くなり、「いろいろ説明しなくても理解してくれるだろう」という親の勝手な思い込みが、そのまま「安直な命令文」を言うことにつながってしまっていたのだと思います。

アドラー心理学において、いかなる関係であっても上下関係は歓迎されません。全て横の関係であることを求められます。親と子であっても管理者と管理される側ではない。親はあくまでも子の隣にいて、できないこと、わからないことがあれば適切な支援をする。それが理想とされています。

「ママ、公園行っていい?」という問いかけに、「5時までにしてちょうだい!」とついつい返していましたが、それ以来「自分で決めていいんだよ。今日は習い事が4時からあるね。何時に帰ってくる?」と問いかけるようにしました。

余談ですが、アドラーを読んで自分の一人称を「お母さんはね」と言うのを止めました。もともと長女が産まれた時に「お母さんだよー」と言うのにもだいぶ抵抗があったのですが、最近はそれが普通になっていました。でも「お母さん」という言葉に、私はどうしても「子の上にいる人」という意識を持ちがちなので、「お母さん」は止めて、「私」に変えようと思います。

自分の子を「理想の子ども像」から減点してはならない

子どもに対して「こうあるべき」という像を勝手に作ってしまい、それに至っていないと「何でこんなこともできないの!」と怒ってしまう。ついやりがちなのですが、アドラーはこれも非常に良くない行為だとしています。

子どもも自分も、常にゼロの地点に立っている

「嫌われる勇気」の中で哲人は、「ありのままのわが子を、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく」必要があると説きます。うわぁそんなの無理( ゚Д゚)と思った方、私もお仲間の1人ですが、しかしこの言葉を何度も読み返し考えてみたのです。

私は小さなころから劣等感が強く、「自分が平均点に達していないと思えること」ばかりに目を向ける子どもでした。平均点に達していないと思える部分(具体的には社交性とか美しさとか優しさとか)が嫌で嫌で、なんとか平均点くらいにもっていけないかと努力を重ねました。努力を続けたこと自体は悪いことではないのでしょうが、気持ちが非常に後ろ向きで、常に「1を10に持っていくのは楽しいけれど、マイナスをどうにか0にしようとする試みは、なんて気持ちが重くつらいことなんだろう」と考えていました。

あの時の自分に、「いつだって人はゼロの地点に立っている。全てここから始まるのだから、マイナスだなんてあり得ない」と教えてあげたいのです。自分の中の理想に向かっていく時、周りを見て他の人よりも遅れていると恨むのではなく、自分が歩いている道だけを見つめて、ただ進んでいけばいいのだと言いたいのです。

わが子が同じような道にさまよってしまわないよう、まずは自分が「誰もがゼロの地点にいる」ことを意識し、子どもたちもそれは同じだということを心に刻みたいと思っています。周りの子や、自分の理想から減点して「だからあなたはダメなんだ」と決して言わないよう、注意深くありたいです。

子どもの課題と親の課題を分離する

そもそも「自分の理想」を子どもに押し付けてしまう理由のひとつに、アドラーの言う「課題の分離」ができていないという点があげられるのではないかと私は思っています。「理想の子どもに育てたい」というのは親の課題であり、子どもの課題ではありません。

宿題をしなさい、忘れ物がないか確認したの?、〇時に起きないと遅刻しちゃうよ、など、普段の生活で何気なく子どもにかけている言葉も、よく考えてみると全て「子どもの課題」であって、「親の課題」ではありません。やらなければならないことをやらずに困るのは、親ではなく子どもの方です。子どもの課題を親が取り上げてはいけません。もちろん、適切な助言はあっていいと思いますが、その助言に従うかどうかを決めるのは子どもの方です。

親と子の課題をごちゃ混ぜにしない。これを心がけることによって、子どもに不当に苛立つこともずいぶん減りました。「あれはやったの?」「どうしてそんなことができないの?」という言葉が減り、「私はこう思うのだけど、あなたはどう?」という対話が増えました。

子どもを尊敬すること

尊敬というと、下から上を敬うようなイメージがありますが、アドラーは少し違った定義をしています。曰く、「人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る」「その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかう」「相手の関心事に、関心をよせる」といった行為が「尊敬」だとしています。これは子育てにおいて、とても重要なポイントだと感じました。

親と子は上下の関係になりがちです。でもそれはアドラーの、そして私の理想の姿ではありません。子どもはいつか、体力的にも知識の面でも、そして精神的にも、いつか親を抜き去っていくでしょう。でもそうやって、互いの持っているカードが変わってしまっても、常に心の中にあり、対話できる相手でありたいと思っています。

対話すべき相手だと子どもに信じてもらうためにも、幼く発展途上の子どもに対しても、この尊敬の念を持って接していくことが大切だと感じています。上から指示をしたり教育を施したりするのではなく、隣にあって子どもに援助ができる親でありたいと願っています。

アドラー流子育ては一見理想論、でもとても実践的

今までいくつかの育児書を読んできましたが、アドラー心理学はその中のどれよりも今の自分に響きました。そして上に書いたようなことを実践してまだ1週間ほどですが、6歳の長女にはすぐに変化が訪れました。

まず、公園に行きたい時、私に「行ってもいい?」と聞かなくなり、「今日は習い事があるから5時まで遊んでくるね!」と言うようになりました。次女に話しかけるとき、「とがったものを持って歩いたらケガしちゃうよ、ケガしたらおねーちゃん悲しいよ」という言い方をするようになりました。長女が特に親の言動をまねる時期だったからだろうと思いますが、この急速な変化に私が一番驚きました(と同時に、親の影響力の強さを知り怖くなりました…)。

このアドラーの考え方が正しいのかどうかはわかりませんが、少なくとも私は怒り散らすことが減り、長女は「自分で考え、自分で決める」ことに一歩踏み出したように見えます。引き続きトライ&エラーを繰り返しながら、わが家の育児を進めていければと思っています。

※ちなみに、他の子育てに関するアドラー心理学の本も読みましたが、ベストセラーになっている「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」が一番読みやすく、エッセンスも凝縮されていると感じたので、興味のある方はこちらの本からどうぞ。いきなり育児用のアドラー心理学の本を読むと「そんなの理想論だ」と感じてしまうかもしれないです。


嫌われる勇気 [ 岸見一郎 ]


幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII