[育児の悩み]「お母さん」への過剰な期待、やめませんか



新春早々大変興味深いタイトルの本を見つけて、kindleでぽちっとしました。


さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

タイトルだけ見ると風俗体験記っぽいですがそうではなく、主人公が性的な経験を通じて精神的に解放されていく過程が生々しく書かれています。「整理整頓されていない心の声を粗削りに吐き出した感じ」がネット作品ぽくて(元はpixivで投稿されていたマンガだそうです)、すごく良かったです。

良かったなぁ、と同時に、「母と子の適切な関係性ってどんなものなんだろう」とちょっと考えさせられる作品でもありました。

何もかもを受容してくれる存在に抱きしめられたい?

作品中には、直接的に親を批判するような内容は出てこないのですが、「親といるのが限界」「自分にとって親の評価が絶対」といった言葉が出てきます。「人が普遍的に求めてる母の概念みたいな、受容してくれる存在みたいな(ものを求めている)」というくだりに当たって、過去、自分自身もそれを望み、現在母の立場になってから「そんなものは超レア」ということに気づいた身としては、うーむと悩まずにはおられなかったのです。

親との関係性に悩んだ思春期

「どうも私は親とかみあっていない」と気づいたのは、小学校に入ってすぐのころ。我ながらこまっしゃくれて可愛げのない子どもだった私は、クラスメートはもとより、教師からも嫌われている存在でした。規模の大小はあれど、小学校1年生から4年生くらいまでは、常時何かしらのいじめにあっているような状態でした。

親にも「こんなことをされた」と話はしていましたが、「それはあなたが最初にこう言ったから悪いんでしょう」とか「まぁよくあることよね」程度にしか受け止められず(確かにそもそもの私の対応が悪かったことも多く、当時いじめ問題はあまりメディアでも取りざたされていなかった)、強い孤独感を味わったことを覚えています。

そのまま成長したもんで、中学生の思春期になるとたいそう関係性はこじれてしまい、父親とは国交断絶状態、母親とは一応話すものの、「大事なことを話す相手ではない、早く家を出たい」と強く思うようになりました。

「自分は満たされない子ども時代だった」という感覚に苦しめられる

大学生になって念願かなって一人暮らしを始め、それはそれは幸せな毎日を送っていました(上京して半年くらい親とは連絡を取らなかった)。けれど大学の友人たちと話をしていて、「早く実家に帰りたいな~」とか「今週はママと旅行なの~」みたいな仲良し家族の話を聞くたび、ぎくっとするくらい冷たいものが心臓に注がれる感じがあったのです。

「自分もそうありたかった」「満たされた子ども時代だったら良かったのに」という感情を、いつしか「自分がこんなにひねくれ者なのは、親が小さかったころにちゃんと愛情をくれなかったからだ」「自分が穏やかで優しい人になれないのは、親が小さなころに抱きしめてくれなかったからだ」につなげてしまうようになっていました。フロイトとか読んだのが多いに余計だった…orz


フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

「自分が望む形の愛情をくれなかった親が悪い」

この時期にパニック障害になってしまったので、この非常にマズイ考え方に拍車がかかります。「パニック障害になってしまったのは親が私の望む形の愛情をくれなかったからだ」「本当は遊んでほしかったのにお父さんはいつも寝てばかりだった」「本当は抱きしめて欲しかったのにお母さんはそうしてくれなかった」と、思考がどんどんどうしようもない方へ落ちていきます。

「ありのままの自分」を全て受け止めてくれる存在=子どものことなら全てを受け止めてくれる(はずの)母という存在、を当時は強く求めていました、

幸いなことに、どこか冷静に「いや本当にそうか?誰かのせいにしたいだけでしょ?母親だって人間だから全部受け止めるとか無理でしょ?」と反復できる部分が残っていたので、そういう思想が頭に張り付きつつも、そう思い込んでしまう自分を客観的に眺めることはできました。

悪循環を断ち切るために必要だったもの

そんな実にイケていない状況から脱するために必要だったのは、大学時代付き合っていた彼(今の夫)の存在。「私を全て受け止めてくれる…!」なんてタイプの人では全然なかったですが、「こんなにダメダメな私を好きだと言ってくれる」ことが私にとってとても大事なことでした。「見ず知らずの他人様が私に価値があると言ってくださる」ことが、私にちょっとだけ自信を持たせてくれました。

大学時代の親友たちは、いろいろと残念な私を見放さず、抱きしめてくれたり、イチャイチャさせてくれたりしました。まるで色気のない、灰色の高校時代を過ごした私にとって、可愛い女子とキャッキャウフフして過ごす時間は本当に楽しく、「私が彼女たちを大切にしようと思うのと同じように、自分も自分を大切にしよう」と思えるきっかけになりました。

そして社会人になり、金銭的にも完全に親から自立したとき、重く背中にのしかかっていた何かがどこかに行ったことを実感しました。「これで自分だけを食わせていれば誰にも文句は言われない。ああなんて自由だろう!」と、心も身体もとても充実していました。パニック発作も、そのころはほとんどでなくなっていました。

「私がうまくいかないのは親の育て方が悪かった」のか?

客観的に自分の心の傷を眺められるようになって、今思うこと。親が悪かったのかと聞かれれば、私は即答したいのです。「親は悪くない、自分自身の問題だった」と。アドラーの本も読みましたが、私の考えはフロイトよりもはるかにアドラーの「すべての責任は自分自身にある」に近いものです。


アドラー心理学入門 [ 岸見一郎 ]

思うに、私は生まれたころから「他人の評価が気になりやすく」「傷つきやすい」性格だったのだろうと思います。その上で親の困った価値観にとらわれ、がんじがらめになり、自分で自分を追い込んでいたのだと思います。

昔はそれらをひっくるめて全部「親のせいだ」と思っている部分がありましたが、生まれ持った性格も、家族である以上親の価値観に多少引っ張られるのも仕方がないことで、それは本当は誰のせいでもありません

でも、「誰のせいでもない」としてしまうと、自分の気持ちの行き所がなくなってしまうから、「親のせいだ」と責任を自分の外になすりつけることで、どうにか自分を成り立たせようとしていたのでしょう。

「親のせいにしない」ほうが良いと言える理由

心理学も流行りすたりがあるもので、アドラーの考えが絶対正しいというわけでもないでしょう。それでも、私は自分の経験を通して、こういった葛藤を親のせいにせず、自分自身に原因があると思った方が良いと考える理由があります。端的に、親に理由を求めても不毛だからです。自分の欠損は親に理由があるとしたところで、何ができるでしょう?親に謝ってもらう?親に今から抱きしめてもらう?それで自分が満たされるならそれも良いと思いますが、そもそも謝罪や抱擁を相手に強要する時点でむなしいでしょうし、親の方から自発的に「自分の望む愛の形」を実践してもらうには手間暇が相当かかるでしょう。

当たり前ですが、他人に自分の思った通りに動いてもらうのは大変なことです。でも自分自身の考え方や行動は、自分の意志で変えていくことができます。他人を動かすよりは断然効率的です。

暴力をふるったりネグレクトするような親の場合は論外ですが、「親とのボタンのかけ違い」で苦しんでいる場合は、親ではなく、自分の方を変えていく方が、きっと無駄に悩む時間を増やさずにすむと思うのです。

「子どものことが全て、子どものことならなんでも受け止める」お母さん像の賛美、やめない?

自分自身が母親になって思うことは、「子どものことならなんでもできる」お母さん像をメディアで賛美するの、やめてくんないかしら、ということでした。「母親」を美化しすぎじゃない…?母とて欠点もあるしズルだってする、普通の人間です。「親に私は苦しめられている」と思っているあなたと同じ、欠損や弱さを抱えた1人の人間で、母親だって自分の人生の全てを子どもだけに注ぐわけにはいきません。

「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」の中で、著者が「人が普遍的に求めてる母の概念みたいな、受容してくれる存在みたいな(ものを求めている)」と書かれていましたが(私も求めていた時期がありましたが)、それって、メディアが作り出した幻なんじゃないかと今は思うのです。母親たちは「子どもの幸せは私の幸せ」「子どもたちのためならがんばれる」ともちろん言いますし、それは本心ですが、それが常に100%ではないのです。それは切り取られた母親の一部です。それをさも常時そうであるかのように、そしてそれが素晴らしいことのように、メディアであおるのは本当にやめて頂きたい…。「いいや私は子のためならなんでもできる、オールウェイズ100%で」というおっかさんもおられるかもしれませんが、それはかなりレアケースで、大多数の普通のお母さんは「子どもの全てを受け止めるお母さん像」と自分とのギャップに違和感を覚え、場合によっては苦しめられていることを知って欲しいし、私のように「100%自分を受け止めてくれるお母さんでいるのが普通で、自分の母は間違っている」と思いこむ子どもたちを減らして欲しいと願っています。

あと、「子どもが落ち着かないのは親の甘えさせが十分でないから」とか「子の自立のためには親の十分な愛情と安心感を」という思想も、そういう面があるのは理解できるけど、「普通に愛されていても満たされないと感じる」子どもがいることへの視点が欠けていると思う…。どの程度で「私、愛されてる!」と思うかは子どもの持って生まれた性格によるところも大きくて、そこを無視して「親の愛が足りないから自立できない」と断じるのは少々乱暴ではないでしょうか。親子関係を「親の一方的な愛情努力」で正そうとするのではなく、私のように「愛されていると感じる器が他の子よりも大きすぎて、なかなか満ちない」子どもには、子ども自身にそれを自覚させ、「その器をもう少し小さくするように努力すると、早めに幸せになれるよ」と教えてあげることも(人格否定になるのはもちろんダメですが)、一方では必要なのではないかと思うのです。

私たちは互いに弱いところのある人間だ

長女は私に似てしまったのか、非常に寂しがりやで、周りの評価を気にし、抱きしめられることを望みます。「理想の母親像」にはまるで至らない私にできることは、できる限り抱きしめてあげることと、子どもになるべく「自分の意思は自分で選ぶ」訓練をするよう伝えることです。他人を変えるのは大変なこと。だから自分が望まないことを言われたりされたりしたときに、反射的に相手に怒りをぶつけたり恨んだりするのではなく、自分のとらえ方を変えるように伝えています。その上で、建設的に自分の意見を伝えられるような練習も。

過去の自分ができたのか、と言われるとなかなか難しかっただろうと思っているので、徐々にそうなればいいなぁという長期戦の構えではありますが、親を憎んで苦しんでいた自分が、このことに早く気づいていれば遠回りしなかったのに、と今は思います。

傷つけられた、と傷を見せびらかすのが子どもなら、その傷をどうやって治したのかを伝えられるのが大人なのではないかと思うのです。このやり方が正しいかどうかはわからず、もっといい方法も見つかるかもしれませんが、私と同じような苦しさを長く味わうことのないよう、精神的に自立した大人になって欲しいと思っています。

親と子という関係ですが、私たちは互いに弱い部分を持った人間です。メディアが作った「母親像」にはとてもなれそうにない私は、いつか娘たちと「良き友人」になれたらなと思っています。互いの悩みを話し、弱さを受け入れ、同じ目線で話ができる、そんな関係を今は望んでいます。

そんなことをつらつら考えるきっかけになった本。ご興味がありましたらぜひ。


さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ